Archive for June 2012

01 June

<Natalis News>より  “使命感”はどこで?

「この国の大学生はますます矮小化している!」  
最近、久しぶりに某国立大学で英語を教えている旧友と話した時に出てきた言葉です。毎年、学部を越えて百人以上の学生を指導していて、明らかに感じる気質の変化があるというのです。その人の表現を借りれば「競争や厳しさを厭い、関心は、海外どころか本当に自分の周囲に限られ、就活以外には将来の展望さえ持たない」そんな学生が非常に多くなったというのです。一人の意見ではありますが、変化というより、従来からの傾向が経済危機や震災などの影響でさらに進んでしまったのかもしれないとも語っていました。
 それは私が時々話を聞くことがある都心の私大に通う学生たちのグループの傾向とも一致しています。しかし、一方で東大で海外ボランティア活動を積極的に続けている、当学院の歴代の学生講師たちのような人たちも確かに存在します。彼らは、常に世界の情勢に関心を持ち、自分の休みの多くを使ってアフリカやアジアの難民や貧困層のために現地で過し、国連関係の会合が国内であれば積極的に参加して最新の情報を集めようとしています。そして、例えば卒業したNさんは、現場を経て国際公務員になる道を模索しているように、自らの意志を貫くために敢えて茨の道を歩こうとしています。確かにいつの時代にもいる特殊な人たちを比べているだけかもしれませんが、留学する学生の大幅な減少など明らかに数字で示されている現状も無視できないものがあります。
 ここでは別に海外に出ることが良いことだと推奨しようとしているわけではありません。場所の内外に関係なく、自らの人生を以て世の中(人類とか「この惑星のあらゆる生命」と呼んでもよいもの)のために貢献しようとする意志とそれを実行する覚悟の有無が問題なのです。そして、この“志”あるいは“使命感”の有無は、子どもたちだけに帰せられるべきものなのかということもです。我々、すでに社会にあるものに使命感がもとめられるのは当然ですが、子どもたちは、いつどこで自らの使命感を帯びるのか、それは本人だけの問題なのか、と考えてみますと、どうしても家庭の役割ということに行き着いてしまいます。
 「こんな時代なのだから、せめて今話題の生活保護なんかの世話にはならないように、安定した公務員か大企業に就職できるように頑張りなさい」と言われて育てばそのように考えるのが子どもでしょう。まず我が身を守ることを教えるのは必要なことですが、一方で、社会への使命感を育てることが意識されているかと常に自問したいものです。もちろん、国家への奉仕を洗脳して国粋少年をつくるというのとは全く違います。志の中身は本人が見つけるべきものでしょう。しかし、自分が生かされているこの世界に何らかの貢献をするという使命の尊さを理解できるようにするのも家庭の責任ではないでしょうか。日々どんな話が交わされているのか、どんな本が書棚にあるか、そして、判断が自分で出来るようになるだけの知識と教養を身につけさせているか。経験もまた大事なことですが、特別なことでなくとも体験したことにどんな言葉を添えて考えさせるかが違いを生むはずです。年月をかけて、時にはあえて「背中を見せる」だけでもして、そうして重荷を託せるだけの次の世代を準備することが私たちの責任であるはずです。
 当学院の(免許皆伝に近い形での)卒業生第一号のSくんは、今春医師になるという目標を実現すべく国立大学の医学部に進学しました。中学入試に合格した直後に初めて来校した時に、なぜ医学部をめざすのかと聞いた際には「家が病院をやっているから」とうつむいて言っていた少年は、中2の終わりにレイチェル・カースンの英文を読んだときには『沈黙の春』を借りて帰って読み、環境と人間の営みについて自分の意見を少しまとめて言えるようになっていました。そして、高1でもう後は自分でやれるから卒業しなさいと話した頃には、「医師として人の命を救うことは絶対に善です」と目を輝かせるようになっていました。ご家庭や彼自身の学びが、確かに彼の中に一番大切なものを育てたようです。

13:30:00 | natalis | |